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村上開新堂初代村上光保は明治天皇に供奉し東上、宮内省大膳職となり、明治3年には洋食と洋菓子技術の習得を命ぜられ、横浜の外人居留地へ派遣される。もともと武士であった光保は刀を包丁に持ち替えフランス人サミュエル・ペール氏に師事。宮内省に奉職し続けるが、明治7年(1874年)に妻茂登(もと)の名で麹町山元町(現在の東京都千代田区麹町)に村上開新堂を創業する。これは日本で初めての日本人による洋菓子専門店であった。
海外の賓客をもてなす迎賓館として「鹿鳴館」が建設される。日本の欧化政策により毎晩のように舞踏会が開催され、絢爛豪華な宴が毎夜繰り広げられた。開新堂の得意とするアイスクリームやガトウなどが宴に多く用いられた。
一政が二代目を引き継ぐ。一政は洋菓子製造を行う傍ら、洋菓子研究に精力を注いだ。フランス語の製菓・料理用語をひとつひとつ翻訳した手製の辞書を作り、その辞書をもとに、多くの原本のレシピに当たる。一政の翻訳作業は店主を退いた後も続き、三代目二郎の味の世界を広げることに大きく貢献することになる。
その当時まだ珍しかったショウウインドウには飾り菓子を飾り、黒ニスで塗り込められた店内には洋酒を陳列する棚や、クッキーなどが入ったガラス容器が並んでいた。2階は喫茶室でお菓子とともにコーヒーも出す、洋風な雰囲気の漂う店舗であった。
大正12年9月1日関東大震災が発生。店舗を焼失し、初代の頃からの記録も失った。しかし約2ヶ月後の11月3日には、東京日日新聞夕刊に、新築開業の告知を出広した。
二郎は、昭和9年に三代目となり、兄一政が翻訳した料理やケーキの本をもとに、研究を重ねていく。在日大使館の外国の方々や、外国をよくご存知のお客様に試食をしていただいては感想を伺い、また試作してみる、ということを繰り返すことで、自分の味を作って行った。
アメリカに端を発した世界恐慌のあおりを受け、日本も恐慌に見舞われた。お菓子のご注文は激減し、一日中、電話を囲んで電話が鳴るのを待つという有様だった。戦争が始まると職人達も次々と出征し、昭和20年5月24日の空襲で店を焼失。8月15日に終戦を迎えた。
終戦後、ごく限られた古くからの上顧客や、外交上の宴席の為のお菓子のご注文が主な仕事だった。その傍らで、戦時中に開発した栄養補給用小型携行食「ヒットB」の販売や日本経済新聞社の食堂運営など、村上家総出で、戦後の苦しい時期を乗り越えた。「ヒットB」はスポーツ選手にも愛用されていた。改良を重ね、昭和31年にマナスル登頂を果たしたヒマラヤ登山隊にも採用された。
村上寿美子とその夫・發(あきら)は、1965年に現在の千代田区一番町へと店舗を移転。数寄屋建築の大家である吉田五十八氏の設計による鉄筋二階建てとなる。
この機会に、フランス料理のレストランを開設。孟宗竹を配した坪庭のあるレストランを、寿美子は「サロン」と称してお客様をお迎えした。そのおだやかな笑顔が、各界で活躍するお客様の心を和ませた。お客様と開新堂の新たな接点を生み出した。
五代目山本道子は、夫・昌英の転勤に伴い、1969年から1974年の5年間をニューヨークで暮らす。子育てに追われながらも、駐在員の妻として、家庭でお客様のおもてなしをする機会が多かった。テレビの料理番組やニューヨークタイムズの料理記事などで、様々なレシピーと出会う。日本では見なかった食材や調理器具が豊かで目新しく、夢中になって試作を重ねた。そうしたニューヨークでの経験と、三代目二郎と過ごした時間が、道子の料理の世界を作って行った。
帰国後、山本道子の東京の味を提供する店として、ドーカン(Dohkan)を1986年に開店。さらに1990年村上開新堂の店舗の改築を機に、建物の一角に「山本道子の店」を併設。紹介を必要としない、街に開かれた店として、オリジナルレシピーによるクッキーや焼き菓子、ジャムなどを販売している。
ペール兄弟ホテル外観。横浜居留地本町通り、
左が84番。日本カメラ財団所蔵
二代目一政の時代、明治40年(1907)、時事新報掲載の広告。314番という電話番号が載っている。
宴席で浅間山の噴火を演出する二郎。
コルトー氏(左)が飾りの幅広リボンごとケーキをカットし、
その指の力に二郎(右)が驚いた。
明治43年(1910年)、日英博覧会で金牌を受賞した飾り菓子「城」。
二代目・一政が受賞した、日英博覧会の金牌賞状。
実物は焼失したが、撮影してあった写真を額装している。